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今日はどこにでも居るしがないゲーム好きの一人として「ゲームにおいて大切なものとは何か」について考えていきたいと思う。
予め断っておくがこれから俺が話すことは100%持論なので、誰の心にも届かないかもしれないし、そんなのは人それぞれだと一蹴されてしまうかもしれない。
だけど、ふとしたときに思い出すこの感覚は「自分にとって大切なのはこれだったんだ」と確信できるものだったので、それをここに書き留めておきたいと思う。
SNSでゲームの話題を追っていると大きく分けて二つの論を目にする。片やグラフィックの凄さ、片やゲーム性の素晴らしさ。このゲームはなぜ面白いのか、なぜ面白くないのか、そんな分析をしている人も少なくないようだ。
そんななか、ふと思った。自分がゲームの面白さを判断するうえで大切なものとは何だろうと。
どれもゲームにおいて大切な要素だ。それぞれが互いを引き立て、総合的なゲーム体験を向上させるのは疑いようもない。
しかしその中からあえて一つを選び取るなら
俺が一番大切だと思うのは「物語」であり、それに結びついた「思い出」こそがゲームの最高の価値
だと思っている。
この時点で一定数の人からお前は何を言っているんだと、ゲームなんだから遊びが一番大事に決まっているじゃないかと言われそうだが、順を追って説明させてほしい。
ゲームの面白さとは何か。そんな疑問について考えていると
ゲームの本質は「遊び」でありそれ以外の要素は飾りである
といった論に出会う。これは遊びという骨格の外側にグラフィックや物語という名の肉や皮があるという考えだ。
ゲームは娯楽である以上遊ぶもの、グラフィックは付加価値であり必ずしも必要ではないことは一理ある。それは現在でもドット絵のゲームや2Dの横スクロールのゲームが発売されていることからも分かることだ。
しかし先ほども話したように、高品質なグラフィックや魅力的なサウンドがあればこそゲームはより素晴らしいものになると俺は思っているし「物語」に関しては絶対に必要であると声を大にして言いたい。
なぜなら物語は遊びの価値を倍増させるものであり、遊びと並ぶゲームの根幹を成す要素だからだ。
「物語」があるからこそ「遊び」も輝く
そう俺は確信している。
極端な話「物語」が無ければ「遊び」は単なる動作に過ぎない。プレイヤーに様々なシチュエーションや動機を与えてくれる物語こそが、ゲームを生き生きとしたものにしてくれる。
例えばダークソウルやブラッドボーンは戦闘の歯応えがあるし世界観も抜群にイカしてて超面白い。俺自身もどちらも大好きな作品なのだが、物語が作中で殆ど語られないor語られても理解するのが困難な場合が多いため、ふとした時に
俺、なんでコイツと戦ってるんだっけ……?
なんて考えてしまう場面が多々訪れる。
物語を断片的に語ることで生まれる謎が世界観を引き立てるという手法はとてもよく分かるが、やりすぎると謎が謎のまま終わってしまいモヤモヤしか残らないという事態になりかねない。
特にブラッドボーンはそれが顕著で、さっき戦ってたやつがラスボスだったと倒してから気づいたくらいには意味不明。
メルゴーの乳母って何?
赤子って?
青ざめた血って結局何なの?
エンドロールを眺めながら浮かんだその疑問に答えてくれる人はいない。何ひとつスッキリしないままゲームは終わる。
どんなに「遊び」である戦闘が面白くてもそこに至る経緯が意味不明だったり自分が何のために戦っているのか分からなければ、一気にゲームの世界から引き離されてしまう。
つまりこういう事だ。
ピーチ姫を助けるという目的無くしてスーパーマリオブラザーズは成立し得ない。
魔王ガノンドロフを倒すという目的無くしてゼルダの伝説は成立し得ない。
マリオやゼルダから物語を捨ててしまえば、それはもう単なるステージクリアを目的としたアスレチックや謎解きゲームでしかなくなってしまう。
ゲーム上では単なるボス戦でも、その相手が序盤から続く因縁の相手だったら?正体不明の敵が実は主人公の家族だったら?ずっと仲間だったキャラが裏切って戦わなければならなくなったら?
ゲーム上ではただのイベントでしかないボス戦も物語次第では輝くワンシーンへと昇華されるのだ。
そもそもの話「遊び」の面白さとは何だろう。
おそらくどちらも正解だろう。しかしそれは平たく言えば緊張と緩和を巧みに利用したストレスからの解放による快感であり、極めてロジカルな仕組みに基づく面白さだと考えられる。
つまり「遊び」の面白さの根源はいつだって自分の中にある。俺たちはゲームを通して面白いと感じるツボを刺激することで、楽しい、面白いと感じるため、そういった構造上「遊び」の面白さは良くも悪くも予想の域を出ない。
対して「物語」の面白さはその予測不能さにある。新作ゲームのストーリーを発売前に予想し的中できる人がいるだろうか。ごく稀にいるだろうが99%の人にとっては難しいだろう。
初めて触れる世界で初めて出会うキャラクター達、そこで展開される未知の物語は、常に俺たちの中には無い面白さを連れてきてくれる。どんなに歳を重ねても新しいゲームが生まれる限り「物語」は俺たちに新鮮な体験を与えてくれる。
序盤の展開からは想像もつかないようなどんでん返しが待っていたり、一見クールで無愛想に見えるキャラクターの過去を知ることで愛着が湧いたり、憎かったはずの仇敵の哀しい過去が明かされ胸が締め付けられたりすることもあるだろう。
物語の世界、キャラクターの魅力、展開されるドラマ。魅力的な物語はゲームに深みを与え、プレイする者の感情を揺さぶり心を動かす。そして動いた心はやがて「思い出」になってゆくのだ。
余談だが、2025年7月7日にFF9は25周年を迎えた。当時はまだ幼くてどんなゲームでも夢中になって遊んでいたが、なかでもFF9は特に印象深く大人になった今でも面白かったと思わせてくれる最高の作品だ。
そんなFF9の周年記念に公開されたのはわずか1分程度の短い映像。軽い気持ちで見に行った後、この胸に残ったのはただひたすらに懐かしい気持ちと「またあの世界に行きたい」「また彼らに会いたい」という郷愁の念に近い感情だった。
初めてFF9を遊んでからかなりの時間が経ち他にも多くのゲームと出会ってきたが、FF9は今でも俺の大切な思い出の一つとして輝き続けている。グラフィックも今となってはポリゴン丸出しでシステムも古臭い。戦闘のテンポだって死ぬほど悪い。現代の基準に当てはめれば到底素晴らしいゲームだなんて言えるはずもない。
しかしそれでもどうしようもなく惹かれてしまうのは、そこに心震わせる「物語」があったからではないだろうか。
俺の場合はFF9だったけど、それぞれが思い浮かべる「あの頃」に遊んだあのゲーム。グラフィックが荒くて操作も不便だったあのゲーム。だけど不思議と「面白かったなぁ」と思えてしまうあのゲーム。
その感情は思い出補正や懐古厨という言葉で片付けられるものではなく、ゲームの中に「心に残る物語」があったからではないだろうか。描かれる物語や、その世界とそこに生きるキャラクター達が好きだったからではないだろうか。
そう、自分にとって大切だったのはそのゲームが「何を見せてくれたか」「何を語ってくれたか」だったのだ。
セフィロスの凶刃がエアリスを貫いたとき、俺たちは戦闘不能ではない本当の死を見た。そのうち復帰するだろうなんて期待も虚しく彼女は二度と帰ってこなかった。
実験の影響もあるとはいえ本当の自分を押し込めて理想とする偽りの自分を演じていたクラウド。クールで頼りになる彼の過去を知ったとき何を感じただろう。
失った命は二度と返らないと知ったとき、自分の弱さやありのままの自分を受け入れることの難しさを理解できてしまったとき、単なる画面に映るキャラクターから「人間味」を感じたとき、俺たちの感情は動いたのではないだろうか。
兵器である黒魔道士たちに心が芽生え、逃げ延びてきた先で仲間達と築いた村。そして、死の概念すら持たない無垢な彼らに突きつけられる寿命という残酷な現実。
「死ぬことは怖いけど、とっても怖いけど、それでも仲間達と過ごす時間が嬉しい。」そう語る黒魔道士288号の言葉に胸が締め付けられると同時に、あれら画面の前に座っていた俺たちにも投げかけられた言葉だったのではないかと今になって思う。
旅の終わりであるザナルカンドで拾ったユウナの遺言とも取れるスフィア。死という運命を受け入れた者の覚悟は悲しくも美しい。そして誰かを想うことは運命さえも変えてしまう無限の可能性があることも知った。
「泣くぞ、すぐ泣くぞ、絶対泣くぞ、ほら泣くぞ」は、あまりにも反則。不器用な父親の愛に涙が止まらなかった。
森で暮らしていた普通の少年が運命に導かれ、時を越える壮大な冒険へと旅立つ。
魔王との戦い、神々の力を巡る争いに胸を躍らせていたあの頃の俺たちは、確かに「勇気のトライフォース」に選ばれた勇者だった。
あの世界の人々は現実の俺たちと同じようにそこで悩みや苦しみを抱えながら生活していた。俺たちはゲームを通して彼らと関わることで幸せの輪を広げていき、誰かを幸せにすることの有意義さを知る。
そんなプレイヤー達「投げかけられた、月の中での子供達の問いは非常に印象的だった。
「君の幸せってどんなこと?君の幸せは…みんなも…幸せなのかな…」
誰かの幸せの裏で誰かが傷ついているかもしれない。正しいことをすれば本当にみんなが喜ぶのだろうか。そんな本質的な問いが今でも胸に残っている。
人間の裏切りによって姉を殺されたハーフエルフの少年ミトスは4000年というあまりにも長すぎる時を憎しみの感情だけで生きてきた。しかしロイドやジーニアスと出会いによってこれまでの自分の行いが間違っていたのではないかと苦悩する。
本当はもう生きていることにも疲れてしまったという本音を溢すが、それでも憎しみは捨てきれず対立の道を選ぶ。
出会い方が違っていれば仲間になれたかもしれない。できることなら「生きていて欲しかった」そう願わずにはいられないキャラクターの一人だ。
ゲームをクリアして電源を落とした後も、ふとした時にあの世界やあのキャラクターのことを考えてしまう。そんな物語こそが、忘れられない思い出になっていくのではないだろうか。
物語の面白さは時代を越える。たとえ技術が進化してゲームの構造がどれだけ変わっても物語の力は変わらない。
むしろ大人になった今の方があの頃は分からなかったキャラクターたちの想いや抱えている痛みがより深く感じられることもあるし、昔は見えなかった部分が大人になってから見えるようになって思わず自分と重ねてしまうなんてこともあるかもしれない。
そんなゲーム達は今も進化し続けている。フォトリアルなゲームは現実と見紛うほどに進化し、セルルックのゲームはもはやアニメがそのまま動いているかのような錯覚すら覚える。
UIも洗練され見ているだけでも触っているだけでも気持ちがいいし、ゲーム性の進化によって遊びもより深く面白いものが登場してきている。
そうやって見て触って、プレイヤーに多くの情報がプレイヤーに伝わるようになったこれからのゲームは、より「物語」が大事になっていくのだろうと思う。魅力的な物語によって動機を与えられた遊びは、きっと心に残る体験を与えてくれるゲームとなるだろう。
俺はそんなゲームが好きだ。今回のFF9のように10年後20年後、ふと思い出す日がまた来るだろう。きっとその時が、ゲームという体験がただの娯楽を超えて人生の一部になった瞬間なのだと思う。
ゲームにおいて大切なのは高精細なグラフィックや斬新なシステムではなく、時間が経っても心に残るもの。そこに「物語」があったかどうかにある。
あのゲーム面白かったなぁ…よく覚えてないけど
それでも良いじゃない。たとえ細かい内容を忘れてしまっていてもあの頃の自分が心を動かされたという事実は変わらない。その思い出こそがもっとも価値のあるものなのだ。
ただ繰り返しにはなるけどこれはあくまで俺の持論なので、あなたと意見が食い違うのも当然だし俺が正しいなんて言うつもりは一切ない。
ただ、もしこれを読んでいるあなたの中にも「忘れられない物語」があるのなら、それはきっと、ただの娯楽を超えてあなたの人生に何かを与えてくれた作品だったのではないだろうか。
ゲームは数十時間という時間を費やして物語を追っていく楽しみがある。それは映画やアニメとは全く違う体験で、ゲームという媒体からしか得られない貴重な栄養だ。
俺はこれからもそんなゲームに、物語に出会い続けたい。どれだけ技術が進化して時代が変わっても「物語」がある限り、ゲームは人の心を動かし続けるのだろう。
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